[BOOKS & MAGAZINES] の最近のブログ記事
先日、新しく創刊された雑誌「COURRiER Japon」(クーリエ・ジャポン、講談社)を駅の売店で見つけ、購入してみた。近頃、あんまり雑誌を読まなくなっていた「はたさん」も、「海外1000メディアから発信されるニュースを厳選!」というコピーにちょっと食指を動かされた、という次第。本家フランス版「クーリエ・アンテルナショネイル」と提携したこの雑誌は、世界中のメディアが発信するニュースを日本語で紹介してくれるというもの。写真やイラスト、レイアウトも綺麗です。
海外ニュースというと、日本のメディアはアメリカからの情報に偏っている気がするし、自力で世界のニュースを集めるのは経済的にも不可能だし、こういうヨーロッパ発のニュースをダイジェストで読めるのはよいかもしれません。それぞれのメディアの特徴や、世界の人々の見方も分かるだろうし...。
でも、これからも読み続けるかどうかは、分からないけれどネ...m(_ _)m。きっと、気になるトピックが特集されたときに買おうかということになりそうですね。
読書好きの人ならば、いつも手元に置いて、何かあるたびに繰り返し読みたくなる本があるでしょう。ぼくの場合は、ヘンリー・デビッド・ソローの『森の生活』と並んで、この『学問のすすめ』(福沢諭吉、岩波文庫、1992)もそんな一冊。このところ、転職者向けのセミナーに連続的に参加して、自分を振り返りつつ、何気なく読み返してみたのです。
本というものは、読み返すたびに新しい発見があるものです。この『学問のすすめ』も、今の自分に向けて説かれているのでは、と思ってしまうくらいピッタリの事柄が説かれていて、驚きです。
例えば、「学問のすすめ 第14編 心事の棚卸」から、
「一身の有様を明らかにして後日の方向を立つるものは智徳事業の棚卸なり」(p.128)
これは、転職・求職の希望者だけではなく、多くの人にとって必要なことだと思います。ぼくの場合、近頃、素直になったのか、開き直りなのか、それとも元々バカなのか、ちょっとばかり耳が痛いけれど、すんなりとわかってしまいました。腑に落ちるって感じでしょうか。誰にとっても、過去の経歴をきちんと把握していなければ、目標もたてられないもんね。
さて、次は「学問のすすめ 第17編 人望論」から。
「顔色容貌を快くして、一見、直ちに人に厭わるること無きを要す」(p.157)
人の第一印象は、その人が何を話すかではなく、表情や態度、仕草、服装などで、決まってしまうのだそうです。福沢先生は、そうしたことも大切だと、説かれていたのですね。しかも、それらは努めて上達することもできると説かれています。「凡そ人心の働き、これを進めて進まざるものあることなし」(p.158)
もうひとつ「学問のすすめ 第17編 人望論」から。
「恐れ憚るところなく、心事を丸出にして颯々(さっさ)と応接すべし...人にして人を毛嫌いするなかれ」(pp.160-161)
人は、同業や仲間うちで固まってしまいがち。そうではなく、もっと心を開いて、幅広く人と交わりなさいと説かれています。出不精で、人付き合いが苦手なぼくにとっては、これが一番辛いかな。だからこそ、一番大事な警句として受け止めなければいけないよね。
それはそうと、ぼくにとってこの『学問のすすめ』は、これから状況が変わっても、いつも読み返すことになるでしょう。なにしろ、日本人が書いた最良の自己啓発の書だと思ってますから。
お父さんの仕事が忙しくて、夏休みにどこへも連れて行ってもらえないトミーくんは、旅行へ出かけるご近所のおうちの鉢植えをあずかる仕事を思いつきます...。
『はちうえはぼくにまかせて』(ジーン・ジオン(さく)、マーガレット・ブロイ・グレアム(え)、もりひさし(やく)、ペンギン社刊、1981年)
ぼくは近頃、仕事やキャリアについてよく考えます。
そこで、ぼくの本棚に眠っている絵本の紹介です。
植物の世話が好きで、鉢植えをあずかる仕事を思いつき実行してしまう『はちうえはぼくにまかせて』の主人公トミーくんは、いわばちびっこ起業家。図書館で勉強しながら、一所懸命ガンバって、みんながハッピーになっていきます。
絵本という分野は、子供のためのものだけれど、大人の価値観や考え方が凝縮されて表現されています。その意味で、お国柄や作者の思想性が如実に現れて、大人が読んでも考えさせられることが多いもの。その点、この『はちうえはぼくにまかせて』は、やっぱりアメリカの職業観、生活観が現れていると思います。
日本で仕事に関する絵本といえば、これまでは「自分を犠牲にして、こつこつまじめにはたらく」ことを賛美するものが多かったように思います。もちろん、そうした価値観は大切なこと。しかし、その陰で働く人も、それを支える家族も、犠牲になってきたのかもしれません。
けれども、時代の流れはどんどん変わりつつあるようです。自分を押し殺してしまったりせずに、自分もOK、みんなもOKになれる仕事や生活をどうすれば見つけられるのか。きっと今、多くの日本人が考えはじめていることでしょう。
作者は、絵本『どろんこハリー』でも有名なご夫妻。この絵本でも、黄色と青、それを掛け合わせた緑という少ない色で暖かな雰囲気を盛り上げています。
ぼくは最近、「声の練習」にはまっています。ちょっとしたマイ・ブーム。毎朝、出かける前に、姿勢を整えて「ん〜」とか「あ〜」とか、ハミングしたり声のウォーミングアップをしたりしています。
鴻上尚史『発声と身体のレッスン 魅力的な「こえ」と「からだ」を作るために』(白水社、2002年)は、劇団「第三舞台」の劇作家・演出家の鴻上尚史氏がイギリスでの演劇レッスンの経験をふまえて、誰にでも実践できるヴォイス・トレーニングの方法を教えてくれます。
もともと、人とのつきあいが苦手で、しかも口べた、話べただと思い込んでいたものだから、心理学関係や話し方の啓蒙書などを読み散らかしてきたのだけれど、近頃「どうもそういうことではないのでは?」と思いはじめたのです。もちろん、TPOに合わせた言葉遣いや会話術というものも大切なのだろうけれど、それ以前に自分は適切な「声」を出しているのだろうか、という疑問です。
ぼくたちはいつも、話す内容には気を配っているのだけれど、話す「声」にはまったく無頓着だったのかもしれません。まったく同じ内容の話でも、声が豊かになれば、魅力的に聞こえるようになる、と鴻上さんは書いてます。いわば、コミュニケーションのストレッチですね。
「豊かな声を持てば、あなたの感情やイメージは豊かになる」(本書、p.153)。
しばし、本書を信じて「ん〜、あ〜」などと、発声練習を続けてみます。
■関連情報
・THIRDSTAGE:劇団「第三舞台」のホームページ。「鴻上演劇研究所」のコーナーで、本書に関する質問も受け付けている。
『哲学ファンタジー』
5000 B.C. and Other Philosophical Fantasies
「哲学」とは、人間にかかわるあらゆる事象を真面目に探究する学問です。けれども「天才とナントカは紙一重」と昔からいわれるように、真面目に探究すればするほど、現実から遊離して、最終的にはアッチの世界の住人...ということはよくあること。もちろん本書の著者、レイモンド・スマリヤンは、そんなことはありません。彼はただ、パロディとユーモアのセンスが抜群なだけなのです...(と、ボクは思う、思いたい、思ってます)。
本書『哲学ファンタジー』(R.スマリヤン、高橋昌一郎(訳)、丸善、1995年)の著者は、アメリカの著名な数理論理学者として知られる一方、一般向けの哲学啓蒙書で軽妙なエッセイを数多く発表され、「現代のルイス・キャロル」と呼ばれているとかいないとか...。本書『哲学ファンタジー』でも、著者自身が「フィロソフィカル・ファンタジー」と呼ぶ芝居仕立てのエッセイや、ユーモラスでトリッキーなアフォリズム風の文章など「考える」ことを楽しみながら「考えさせられる」仕掛けがいっぱいです。たとえば、短い文章...
「最近、星占いを信じているかどうかを、私に尋ねた人がいる。私が、『自分は双子座の人間だからそんなものは信じない』と言ったところ、その人はかなり困惑したようだ」(本書、p.34)
え、「面白くない」ですって? 面白くないことが、ホントは面白いってのが、哲学なんだけどなぁ〜。でも、ホントにほんと、面白いんですよ。
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・『哲学ファンタジー』(R.スマリヤン、高橋昌一郎(訳)、丸善、1995年)
近ごろ星にまつわる本を2冊読みました。『星と伝説』(野尻抱影、中公文庫BIBLIO、2003年)と『星三百六十五夜・冬』(野尻抱影、中公文庫BIBLIO、2002年)です。
野尻抱影先生は、専門の天文学者ではなく、中学校教員や雑誌編集などに携わりながら、数多くの天文エッセイを書きつづけたのだという。「冥王星の命名者」としても知られ、「わが国の天文ファンの裾野を広げた功績」は大きいと紹介されている。う〜〜ん、カッコいい。好きだなぁ〜、こういう生き方。
エッセイの内容も、実に幅広く、さらりとしていて、嫌みがない。抱影先生のお人柄か、その学識のせいなのか? 『星三百六十五夜・冬』の解説で石田五郎氏は、こう述べています。
「該博な抱影先生の学殖は、東西古今の文人・詩人に親しみ、その詩文を憬仰し共鳴し、ギリシア・ローマの、古代中国・唐・宋の、あるいは平安・江戸時代の星空の美しさを再現してくれる」(『星三百六十五夜・冬』、野尻抱影、中公文庫BIBLIO、2002年、p.139)。
『星と伝説』では、ボクの郷里、北海道旭川市やアイヌの神話の話題が多く取り上げられているのも、親近感をもつ理由です。アイヌ人は「北極星にも『カムイ』を使ってチヌカルカムイとも呼ぶ。Chinukarukamui! その美しくて荘重な響きは、世界どこの民族の北極星の名にも発見されない」(『星と伝説』、p.113)。「ピタゴラス学派の星の音楽」の話題も、美しいイメージを呼び起こす。
野尻抱影先生のエッセイを読んでいると、中学時代の夏休み、悪友たちと一夜を過ごしたキャンプを想い出しました。テントの裾から顔を出して、夜空を眺めていたら、一分に一回くらいの割合で、流れ星を見たのです。あんなにたくさんの流れ星を、一晩で見たのは初めてでした。「ナントカ流星群」が、地球に近づいていたのでしょうか。
それはともかく、野尻抱影先生の文章は、無駄がなく、上手い。
ボクもいつか、抱影先生のようなエッセイが書けるようになれるのでしょうか...。
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・『星と伝説』(野尻抱影、中公文庫BIBLIO、2003年)
・『星三百六十五夜・冬』(野尻抱影、中公文庫BIBLIO、2002年)
ぼくの名前は、アシュモル。オーストラリアのオパール鉱山で働くお父さんとお母さん、そして妹のケリーアンと暮らしてる。でも、ケリーアンには、まったくまいっちゃうよ。だって、人には見えないポビーとディンガンって友だちがいるって、いつも言い張るんだ。
ある時、ケリーアンは具合が悪くなって寝込んでしまう。ポビーとディンガンがいなくなってしまったって、ケリーアンが言うんだ。認めるのはしゃくだけど、ケリーアンの元気を取り戻すには、ポビーとディンガンを探すしかない。たったひとりの妹だもんな。でも、架空の友だちなんて、どうやって探せばいいんだ。コンチクショウ...。
──最近、珍しく小説を読みました。表紙のイラスト(酒井駒子さん)に惹かれて買ったんだけど...。
『ポビーとディンガン』(ベン・ライス著、雨海弘美(訳)、アーティストハウス、2000年)です。本書は、1972年イギリス生まれの小説家、ベン・ライス(Ben Rice)のデビュー作。オパール鉱山をめぐって山師たちが集まり、「いつ見つかるともわからない宝石を探し続ける町」(p.165 訳者あとがき)ライトニング・リッジで暮らす兄妹の不思議で、心暖まる物語。
家族の絆、夢を見続ける勇気、そしてその代償...。さまざまに受け取ることができるだろうけれど、自分自身に重ね合せて、近ごろ珍しくググッと心に響きました。
「笑いたいなら笑えばいい。ぼくはちっともかまわない。なぜってそいつらはみんな、なかなか目には見えないものを信じることも、さがしてもさがしても見つからないものをさがし続けることも知らないトンチキなんだから」(p.162)
おすすめです!
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・『ポビーとディンガン』(ベン・ライス著、雨海弘美(訳)、アーティストハウス、2000年)
高見壽雄先生のブログRadical Imaginationで、「Pin-Up-Girl.com」が紹介されていました。「...をオープンした」と書かれているから、これは高見先生の経営されるページなのでしょうか? ちょっと可愛いので、買っちゃおうかな?
それはともかく、「ピンナップ」つながりで、『ピンナップ・エイジ』(伊藤俊治・伴田良輔、リブロポート、1989年)を紹介させていただこうと思ったら、去年10月のエントリー「オランダの『ピンナップ・ガールズ』フィギア」のなかで、『新編ピンナップ・エイジ』(伊藤俊治、ちくま学芸文庫、2000年)の方を、すでに紹介されていたのでした。さすがです!
さて、ピンナップの歴史については、高見先生が簡潔に要約されているので割愛するとして、この本を読んでいて気になるのは、多数紹介されているピンナップ・ガールたちの笑顔に比べて、伊藤俊治氏の文章のトーンが暗いこと。20世紀は、ピンナップをはじめとして「性的イメージの開放」の時代だったけれど、20世紀後半、それは行き過ぎてしまったようです。
「芸術作品の複製技術は、芸術にたいする大衆の関係を変化させる」(ベンヤミン、『複製技術時代の芸術作品』、佐々木基一(解説・編集)、晶文社、1994年、p.34)。ピンナップが芸術だというつもりはないけれど、写真表現が主流になり、とくに1965年『ペントハウス』誌が創刊されて以降、ピンナップは急速に即物的で露骨なポルノと化していきます。そこでは、女性は人格をもつ存在ではなく、男性の視線に差し向けられた欲望の対象として扱われていく。凶悪性犯罪の多発、そしてフェミニズム運動の台頭...。
ボクが本書のなかで、「ピンナップ・ガール」たちが一番、健全で健康的だったと感じるのは、写真表現に取って代わられる以前の、19世紀後半〜1940年代ごろまでのイラストによる表現。絵やイラストは、写真のようなリアルさはないけれど、かえって純粋なイメージを表現するように思います。
チャールズ・ダナ・ギブソンのギブソン・ガール(1890年代)、ジョージ・ペティのペティ・ガール(1930年代、「エスクワイア」誌など)、アルベルト・バルガスのバルガ・ガール(1940年代、上掲写真、本書p.33より)など...。
ピンナップの歴史は、技術の進歩が必ずしも好ましい結果をもたらすわけではないことの一例、といえるのかもしれません。
この数日間で、ブログ関係の本を2冊も立て続けに読みました。
『ブログではじめる!ノーリスク起業法のすべて あなたの日記をお金に換える法』(丸山学、同文館出版、2005年)と『超簡単!ブログ入門──たった2時間で自分のホームページが持てる』(増田真樹、角川Oneテーマ21新書、2005年)の2冊。どちらも、気合いを入れても入れなくても「たった2時間」で読めてしまう本だ。すでに、去年の3月からブログを始めているぼくとしては、内容的にはほとんど知ってることばかり。
じゃ、なんで今さら入門書なんて読んだのさ? といわれれば、自分のなかでブログをやってる意味が、わからなくなってきたからだ。かなり早い時期に始めたものの、まったくエントリを書かない中だるみ期間もあったし、人気ブログとよばれるほどのアクセスがあるわけじゃなし、何かについて人に負けない専門知識があるわけじゃなし...。コメントもトラックバックもそんなにないし、大事な時間使ってこんなことやってていいのかなってのが、去年までのボクだったのだ。なんだかリアルな自分をめぐる状況も変わってきたし、まぁ、初心を忘れないように...ってことです。
はじめは、当サイトの付録ぐらいに考えて、編集日記や備忘録程度に使おうと思っていたブログだけど、アクセス解析などを見ると圧倒的にブログページの方がアクセスが多くて、ホームページのアクセス・カウンターなんて有名無実化しているし、「文庫本大好き」さんのところのように、全部ブログ化しちゃおうかとも考えてみたり...。
でも、それをやらないのは、『超簡単!ブログ入門』の増田さんがおっしゃるように、アーカイブは大切だって思うからだ。増田さんは、「記事をニュースとして伝えることよりも、残し続けること、論じ続けることの価値も見過ごせない」(p.51)と言う。
これは、ブログばかりじゃなくて、普通のWebページでもおんなじだと思う。「ウェッブページは永遠に」と、Webユーザビリティ研究の第一人者ニールセン博士も言っているではないか。
実際、アクセス・ログを丹念に見ていると、すでに存在しないファイル(ページ)でもずいぶんとアクセスされていることがわかる。インターネットでは、いつ誰がどこからアクセスしてくるのか、わからないのだ。古いページだからといって削除してしまうと、折角の見込み客ないしはファンを逃してしまうことになってしまうのだ。
それに、ボクたちが古本を探すように、何気ない日記やブログでも、誰かの役に立つってことはあるものだ。
これが、まず第一の確認!
次は、『ブログではじめる!ノーリスク起業法』だが、こちらは行政書士の先生が書かれた本だ。ひと言でいってしまえば、「ブログで人脈を作ってから起業しましょう」という内容。「言葉力」「個人ブランド」「強力なビジネスツール」など、現実的な言葉が並ぶ。
「「ブログ」「ホームページ」「メールマガジン」を総動員して、インターネット戦略を完成させよう」(7章)という丸山先生は、「弱者が勝ち抜くには、『使えるものは何でも使う』くらいの覚悟が必要」(p.106)という。
これが、第二の確認!
ということで、一応今月からボクのブログでも各エントリにブログランキングへのリンクを貼り付けたりしちゃいました。このページが気に入ったら、クリックしてくださいネ。
でも、あんまりドギツイことはしたくない。よく、同一エントリに3つも4つも「クリックしてください」「お願いします」って書いてるページを見かけるけれど、どうもイマイチ好きになれないのだ。「使えるものは何でも使う」「なりふり構わず」ってのもわからないではないのだけれど...。ボクの個人ブランド戦略は、まだまだ試行錯誤が続きそうです。
そうそう、去年の春頃、増田真樹氏の「metamix」からブログピープル経由でリンクされていたんだよ。おいおい、プロのライターさんにリンクしてもらったよ、と喜んでいたのに、ボクの方でディレクトリ変更したもんだから、リンク外されちゃいました。残念(/_;)
こっちは、律儀にず〜っとリンクしてやってるのにサ!(←冗談ですヨ)
■関連ページ
「ノーリスク起業予備校」の要点ノート:丸山学先生のブログ
「metamix」:増田真樹氏のブログ
Jakob Nielsen博士のAlertbox:Webユーザビリティ研究の第一人者ニールセン博士の記事を紹介するページ
■アマゾンで注文
・『ブログではじめる!ノーリスク起業法のすべて...』
・『超簡単!ブログ入門──たった2時間で自分のホームページが持てる』
数日前、ボクのお気に入り「文庫本大好き」ブログで、デヴィッド・ヒュームの『人性論』(大槻春彦訳、岩波文庫、1995年、全4冊)が、Yahooオークションで希望落札価格15000円で出されていたとの記事があったので、是非とも一言。
この本は「イギリス経験論哲学を徹底させ、懐疑主義に行き着いた」と多くの初歩的哲学入門書には書かれているであろうスコットランド出身のイギリスの哲学者デビッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の主要著書、"A Treatise of Human Nature"(1739-1740)の全訳で、1948年から1952年にかけて、大槻春彦先生の訳で岩波から出版されたものの再版だ。
ボクにとってこの本は、実に思い出深い本なのだ。というのも大学時代、ボクの選んだ卒論テーマが、今考えるとよく担当教授が許してくれたなと思うのだが「ヒューム哲学における自由と必然性」などという大それたテーマで、原書と併せて日本語訳で読めるヒュームの著作を探しまわった経験があるからなのだ。
もちろん、大学図書館や国会図書館にあるのは知っていたけれど、長期にわたってじっくり取り組みたかったし、線を引いたり、蛍光マーカーを塗ったり、付箋をつけたりしなければ熟読できない性質なので、是非とも手元に欲しかった。そこで、WEB「日本の古本屋」の探究書コーナーに登録したのだった。
しばらくすると、東京神田の風光書房さんから、在庫ありのメールを頂いた。確か、当時で8000円くらいだったと思う。ボクが電話で「高いですね」というと、店主は「この本は、出版部数が少なくて、業界にもあまり出回っていないんですよ」という返事だった。仕方がないので、買わせていただきました。
実際、ヒュームの『人性論』(ボクは個人的に「人間本性論」と訳している)の全訳は、大槻先生のものしか見当たらない。部分訳ならば、『中公バックス世界の名著32 ロック・ヒューム』(大槻春彦(責任編集)、中央公論新社、1999年)のなかで土岐邦夫訳で出ていて、今でも買えるのだが...。(ちなみに、『世界大思想全集 第13巻』(春秋社、昭和5年)というのも国会図書館にはあって、ぼくは実際に見ていないので確かなことはいえないのだが、166ページというボリュームから推測すると、おそらく部分訳なのではないかと思う)。最近では、『人間本性論〈第1巻〉』(木曾好能訳、法政大学出版局、1995年)というのもあるが、これはわずかに原書の第1部(BOOK I)で、残りの第2部(BOOK II)、第3部(BOOK III)はまだ出ていないし、この本自体がアマゾンでも在庫切れになっている。
というわけで、訳語も少々古めかしくなっているのだが、ヒューム哲学の研究を志している学生・院生には、是非とも欲しくなる本なのだ。その著作は、カントに「独断のまどろみを覚まされた」(『プロレゴメナ』)と言わしめたばかりか、英米における現代分析哲学の有名な哲学者たちが何らかの立場でヒュームに言及しており、そのことだけでもヒュームの影響力の大きさがわかる。
もはやボクは、専門研究者でもない素人哲学者(?)なので、この辺りで止めとこうと思うが、ヒュームからボクが学んだことをふたつだけ。
ひとつは、物事を徹底的に考え抜く、ということ。
もうひとつは、熱狂と迷信を退けること。
ヒュームは、宗教戦争の頻発する時代にあって、熱狂(プロテスタント)も迷信(カトリック)も退けたのだ。それゆえ、無神論者のレッテルを貼られたが、彼は独特の自然宗教観をもっていたのだと、ボクは思う。このことは何も宗教についてばかりではなく、流行や政治的言論、自分の仕事についても言えることだと肝に銘じている。
ともあれ、ヒュームの著作のほとんどを、1年半もかけて集中的に読んだ経験は、ボクにとってかけがえのない大切な思い出だ。もちろん、15000円以上の価格を提示されても、売りたくはないけれど、実際いくらぐらいになるのかなぁ? なにしろ、3色ボールペンやら蛍光マーカーやらで、ぐちゃぐちゃだもんなぁ...。
《追記》
上のエントリーで、「『中公バックス世界の名著32 ロック・ヒューム』(大槻春彦(責任編集)、中央公論新社、1999年)のなかで土岐邦夫訳で出ていて、今でも買えるのだが...。」と、書きましたが、念のためアマゾンで調べてみたら、どうやらボクのは中古になっていました。新品は出てないのかしら? 誰かご存知でしたら、教えてください。



