Radical Imaginationの高見氏が、米軍の装甲車に描かれた「キルロイ参上」という落書きを話題にされている。
グラフィティ(graffiti)という表現手段が美術の世界で話題になったのは、1970年代後半である。ニューヨークの地下鉄にスプレー缶で描かれた落書きだ。ある者(つまりは、キース・へリングのような)は、そこからアートの世界に飛び出していった。しかし、グラフィティ(落書き)とは、結局のところ自然発生的な反抗なのだ。
それは「メディア・記号・支配者の文化による恐怖政治的権力の空間/時間としての都市への、新しいタイプの攻撃」(J・ボードリヤール、今村仁司・塚原史訳、『象徴交換と死』、ちくま学芸文庫、1992年、p.184)なのである。
わたしたちの政治は、各人に固有の名前(あるいはID番号)と社会的責任、掟を押しつけ、国家・民族・宗教・その他の名において、一切の連帯を断ち切る。しかし、グラフィティの名前はそうしたものとは異なる象徴的役割をもっている、とボードリヤールは言う。
「それらは、お互いに与えられ、交換され、伝えられ、無限に交代しあうことを目的として、作者の名を明らかにせずにつくられるのだが、作者不明といっても、それは、集団全体の一種の匿名的行為であって、これらの名前はその集団の合い言葉のようなもので、つぎつぎに伝えられてゆき、言語同様、誰の私有物でもないので、たやすく交換されることになる」(ボードリヤール前掲書、p.190)。
「アメリカ軍の兵士の実態は、常に市民の平均というのは程遠い。いわば極貧層が主体である」(岡庭昇『いまさらブッシュ』、三五館、p.34)と言われるが、米国の兵士もまた、すでに抑圧された被害者なのである。彼らは、自軍の放つ劣化ウラン弾の放射能のなかに放たれた番犬に過ぎない。彼らは、アメリカ軍以外の保険にも加入できず、再就職もままならないので、軍の命令のまま黙っている他はない。こうしたシステムが、退役軍人たちの発言力を奪ってしまっているのだ。(L・モレ+藤田裕幸「劣化ウラン弾は明らかに大量破壊兵器です」『世界』岩波書店、2003年10月号、参照)。
自国の人間さえ人間以下の扱いをする、というのがアメリカ政府のやり口だ。戦車や装甲車のグラフィティも、死と向き合った兵士たちの精一杯の空威張りと、そうした支配者への無言の抵抗なのだろう。それゆえ、われわれが戦う相手は、個々の兵士ではない。人々をそのような過酷な状況に仕向ける冷酷な政治指導者なのである。

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